信じ続けた母と、やっと信じられるようになった娘。(信じ続けること2)

彼女が作曲家になりたいという強い意志が芽生えたのは、恐らく大学を卒業する頃だったような。

 

 

幼き頃から「音楽が好き」ということは一貫していたけども、「それが職業になる」というふうには思っていなかったから。

特に「作曲家として生きていく」というのは雲の上の、またその上の話のような気がしていたから。

 

 

 

独学で作曲活動をスタートし、バンド活動でステージにも立ち、と、音楽にどっぷりつかっていた大学時代。

彼女が入学したのは鹿児島大学の法文学部というところで、音楽とは無縁の場所。

 

「音大に行かないの?」と言ってくださる方もいましたが、音大を目指すとなると、目指すだけの諸々(金銭面含め・芸術系はとにかくお金がかかる)があるわけで。

そこまでの覚悟も用意もなかったシングルマザーのわたしは、彼女にその道をすすめようとは思いませんでした。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

自宅から大学に通いつつ・・

フツフツと燃え続けた音楽への情熱。

 

 

塾講師以外のバイトは続かず

「自分に不向きなもの」「やりたくないこと」がはっきりし

「わたしは音楽以外のことはなにも出来ない」

そんなことを口にし始めたのもこの頃。

 

 

 

 

当時、人と関わるのが得意でなはくどちらかというとおとなしい性格の娘が、自ら作曲の先生についてみたり、作曲コンテストにエントリーしたり、と、模索が始まりました。

 

コンテストで難関を突破した喜びも束の間・・

そこから先はどうすれば良いか?というのは何もわかりませんでした。

 

 

まわりは就職が次々に決まっていく中、「得体の知れない何かを掴もうとしていた」娘は本当に不安だったと思います。

 

 

「普通に就職したほうが楽だったのでは?いや、それでは自分が自分ではなくなってしまう・・」

実際、この頃の娘の心はジェットコースターのように上がったり下がったりの繰り返し・・・

「夢を信じる」ことなんて、なにも出来ない状態。

 

 

しかしわたしには、「本当に才能と情熱があるのなら、どんなところにいても、選ばれていくだろう」という、何か、信念だけはあったのでした。

 

 

それは、毎年大勢の作曲科を卒業していく学生がいるけど、どれだけプロになっていくのだろう、という疑念と、

鹿児島ご出身の吉俣良さんのように音大卒業していなくても偉大な作曲家になっておられる例からくるものでした。

 

 

 

大学内のバンドをいくつも掛け持ちする一方で、社会人バンドからの声かけがあり、そこにも参加するようになった彼女は、音楽の幅を広げていくようになりました。

 

その社会人バンドのバンマスが、今のわたしの夫、三浦です。

今思い返すと、彼はキーパーソンです。

(後に、わたしにとっても重要なキーパーソンになるのだが笑)

 

彼は最初から娘のことを「いずれ東京に行く人」と言っていました。

 

 

 

芸歴長い彼は、東京のプロミュージシャンや作曲家との交流が深く、娘は彼と一緒にバンド活動をするうちに、そこから自然にプロとの交流が派生していきました。

(ひょえー。鹿児島にいながら、なんて贅沢な。ちなみに吉本良さんも昔のバンド仲間らしい。)

 

 

 

ライブで同じステージに立たせていただいたり、作曲について学んだり、プロの音楽の世界について教えていただいたり。

とにかく、多くの音楽家から新しいことを吸収していく日々でした。

(とにかく学ぶことを渇望していたので、嬉しくて嬉しくて。)

 

 

ある作曲家Aさん(有名なアニメ曲を数多く手掛けてらっしゃる)からは「1日1曲くらい作曲出来ないと作曲家になるのは無理」と言われ、そこから毎日休まず1作品作曲することを自分に課せたり。

(当時はそんなことやったことなかったから、とにかく、きつい様子だった笑。今となってはどうってことないようだけど。)

 

 

ある作曲家さんBさん(「シルクロードで有名な喜太郎」さんバンドの鍵盤奏者でもある)に演奏依頼され、彼の完全コピーして挑んだり。

(あの時はすごかったと、今でもBさんに言われうれしい。)

 

ある作曲家Cさん(ミュージシャンでもありボイトレの先生でもある)からは、デモ音源について けちょんけちょんに言われどん底まで突き落とされたり。

(あの時、初めて、人生ではじめて音楽が手につかないほどに落ちこんだ。でも、あれがあったから今の娘がある。本当に感謝。

そして、その後、音楽業界の方と繋げてくださった。もう愛しかない!)

 

 

 

「音楽で飯を食えるのはほんのひと握り」

「やれるだけやってみたらいいけど厳しいよ。才能ある○○もそうだったし。」

「え?NHKで音楽を使ってもらいたい?できるわけないじゃん。」等と、

鹿児島の音楽業界界隈で冷静に言われる中、

ひとり、学びと手を止めることなく作曲をし続けました。

 

 

そう、なにがあっても情熱だけは誰も止めることが出来ない。

「やらなければ」ではなく「やらずにはおれない」のです。

魂の叫びとも言うのか?

(ムンク?これは、叫びか。笑)

 

 

これこそが「好き」だけでは超えられない壁を越えられるのだと思います。

 

 

だって、芸術家になるのは簡単じゃない。

皆さんが言ってくださったことが現実なのです。

 

 

才能と誰にも負けない情熱(努力)、

そこに良縁(行動してつかむ)があって、

初めてプロへの道が開かれる。

 

 

 

現在は、音楽エリートと呼ばれる大先輩たちに囲まれ、

異端児のピヨピヨ(ヒヨコ)娘は、小さな羽を広げ進化中。

 

 

「学んでも学んでも学び足りない」「自分には才能がない」と打ちのめされたりしているけど、

「どんなに打ちのめされても、絶対にやめようと思わないことがもう才能だよ。」と私は言う。)

 

 

娘のことをずっと信じてきたわたしと、

今やっと自分のことを信じることができるようになってきた娘。

 

 

「(自分の仕事に関係ない)人に何を言われようと、もう何も思わないし傷つかない。」

 

 

「寝ても覚めても」夢を必死で追いかけてきた圧倒的時間と量からくる自信の裏返しだと思います。

 

S__17776675

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

わたしは、ずっと、夢に思い描いでいた娘の姿があります。

 

 

それは「オーケストラのレコーディング風景」です。

「どうしても浮かんでくる」し「どうしても消せなかった」風景です。

 

 

S__17776677

こんなに早くその姿を見ることになるとは想像していませんでしたが、叶ってしまえば、嬉しい反面、案外、あっけないものでした。

 

今までネットやテレビの向こう側の世界でしかなかった一流の音楽家の皆さんに

 

自分が作曲した音楽を演奏していただき、

自分がディレクションするということで・・

 

 

本人も、決まった時には緊張していたものの「始まったら意外と普通にやれた」そうです。

「わたしは音楽に人生をかけてる」と本人が言うくらいに全振りしているので、いざという時の緊張はないのだと思います。

(6曲レコーディングするのに、全パートを記した譜面の量だけでも凄まじい。)

 

 

【各セクションごとにレコーディングしていきます。朝から晩までかかる大仕事!】

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「信じ続ける」って容易いことではないと思います。

挫けそうになることも、たっくさんありますし。

(本当に挫けた時には一旦やめればいいと思うし。

挑戦できるうちにたくさん挑戦したら良いと思うし。)

信じ続けることが、しんどくなることも実際ありますね。

 

 

 

最近、様々な方とお話させていただく中で感じたことから、自分の経験について少し書いてみました。

 

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最後に、娘に「1日1曲作曲」の宿題をくださった作曲家Aさんの言葉を紹介します。

 

一部の天才以外の人間はまず自分に才能がないのを認めるとこから始めなければならなくて、

才能がないから辞めようなのか、

才能ないけど絶対この世界で生きたいから才能のない自分はどうすればいいかを考えられるか、でその後の人生決まると思う。

自分は後者。どちらも出来ない人間は業界批判しちゃダメ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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